uターンを殺したのは腐女子

uターン クオリティ&チャレンジ

監督、、、出演の『』。2013年のスペイン映画。。

スペインの。服の仕立て屋のカルロス(アントニオ・デ・ラ・トーレ)は、女性を殺してその肉を食する別の顔を持っていた。同じアパートの上の階に越してきた出身の女性アレクサンドラ(オリンピア・メリンテ)のことが気になるが、カルロスの気持ちに感づいたアレクサンドラは彼に接近してくる。

予備知識はほとんどなくて、どうやら“人肉食”を描いた作品である、という情報だけで観に行きました。

18禁で女性の裸体は映るけど、性交場面はない。おっさんのティンコが2回ほど映っていた。

なんか最近、映画館でおっさんのティンコばっか見てる気がするが(誤解を招くような表現)^_^;

“カニバル”というタイトルから連想したとおり人を殺してその肉を食らう場面があるにもかかわらず、『』とか『』的な内臓デロリンチョや脳みそパカッみたいな直接的スプラッター描写は皆無。

残酷な行為はすべてフレームの外で行なわれるし、『』や『』みたいに人体がバラバラに解体されているショットも一切ない。

人を食う残酷描写でいったらゾンビ物なんかの方がよっぽど激しいわけで、でもこの映画は人肉食という行為自体を淡々と描いているので、こういうタイプの映画によくあるような生理的嫌悪感をもよおすこともない。

なんでこれでR18+?という疑問はある。

18禁の理由はボカシなしのフルヌードと、この「人肉食」が倫理的に問題があるから、ということらしい。

主人公のカルロスは殺した女性の肉を小分けにして冷蔵庫に保存していてそれをステーキにしてワインと一緒に食べるんだけど、見た目普通のお肉と変わらないから実に美味そうなんだこれが。

そしてポスターに“A Love Story”とあるように、これはホラー映画ではなくて一種のラヴ・ストーリーのように描かれている。

とても淡々とした作りの映画で、後半ではまぶたが重くなってきてしまった。

それでも「退屈」とか「つまらない」というのではなくて、なんというか、ちょっとボヤケた意識で観ていてわりと心地よかったです。DVDで観たら居眠りしちゃったかもしれないけど。

それではこれ以降ストーリーのネタバレがありますので、未見のかたはご注意ください。

すでに観た多くの人が疑問に感じているように、この映画ではカルロスの行動に不可解な点が多く、そもそもなぜ彼は女性を殺して食うのか明快な理由は最後まで述べられない。

冒頭でカルロスが“獲物”に目をつけて山小屋で目的を果たすまではかなりスリリングで、ガソリンスタンドの男女のロングショットからすでに不穏な空気が立ちこめている。

獲物を見ているカルロスの視点での移動、男女の車をあおり、追い越したのちにUターンして正面から猛スピードで向かってくるカルロスの車、避けようとした犠牲者たちの車の横転、と一気にたたみかける。

そして山小屋での女性を全裸にしての肉の解体。なかなかゾクゾクさせられる導入部。

ところが、タイトルが出てからは一転して映画は殺人鬼にして人肉食家(?)であるカルロスの日常を淡々と映しだす。

その後もカルロスによって犠牲者が何人も出るが、先ほどと同様に直接的な暴力や殺人シーンが描かれることはなく、この淡々としたペースは最後までほとんど変わることがない。

これ見よがしに観客にショックを与えるような場面もない。

主人公がどのようにして人を殺すのか、あるいは彼は警察に捕まるのかどうか、といったスリルやサスペンスを期待すると肩すかしを食らう。

この映画は『』のような残酷ホラーでもなければ、『』のようなスリラーでもない。

生真面目な仕立て屋が一人の女性に想いを寄せる監督の『』というフランス映画があるが、まさしくこれはその人肉食版、といった感じ。

『仕立て屋の恋』の主人公も『カニバル』の主人公カルロスも気になる女性を盗み見してあまり表情を表に出さない寡黙な男だが、結果的に彼らはヒロインといい仲になる。

どちらの作品でも最終的に男女は別れることになるのだが、映画自体がひとりよがりな男の妄想めいた内容である、という点も似ている。

さらに『カニバル』ではヒロインは二人いて、しかもそれを一人の女優が演じている。

姉妹という設定で、最初にカルロスの住むアパートの上の階に引っ越してきたアレクサンドラは金髪で美しいが、夜中に部屋で電話しながら大声で怒鳴って暴れたり人の部屋にずかずかと入ってきて勝手に冷蔵庫を開けたりするような、ちょっとがさつな女性として登場する。

 

部屋の窓から自分のことをカルロスがいつも見ていることに気づいたアレクサンドラは、電話で姉と激しく口論したあとカルロスの家を訪れるが、冷蔵庫の中のラップに包まれた大量の人肉を見てしまったために彼に殺されてしまう。

一方で、アレクサンドラの失踪後にやってきた姉のニーナは、妹とは対照的なひかえめな女性で髪の色も濃い。

ニーナはカルロスがアレクサンドラを殺したことを知らないまま、妹が持ち去ったアパートの購入費を代わりに立て替えてくれたカルロスをいぶかしく思う。

しかし、カルロスが下心や妹の差し金ではなく好意から親切にしてくれたと信じたニーナは、彼に惹かれていく。

 

アレクサンドラとニーナの2役を演じるオリンピア・メリンテは、ちょうどかのような顔立ちで、肉付きのいい身体がとても魅力的でヌードも見せている。

大金を都合してくれたカルロスにロウソクを使ったマッサージ(エロい方のではない)をしていたら彼が急に服を着て立ち去ってしまった時の固まったまま戸惑った表情とか、なんかすごくイイ。まだ28歳だそうだけど大人の女性の色香を感じる。

先ほどルコントの『仕立て屋の恋』に似ている、と書いたけど、他にも『』や『』など、彼の一連の作品の雰囲気とも共通するところがある。

それはヒロインが主人公にとっての「理想の女」として描かれている点。

この『カニバル』では主人公はヒロインの一人を殺して食べて、その女性とソックリな姉と恋仲になる。

都合がいいといえば実に都合のいい展開。

かつて前述のルコントの映画を「気持ち悪かった」と評していた女性がいたが、そういうことでは『カニバル』もまた気持ち悪い映画かもしれない。

なぜなら“A Love Story”な
とはいっても、これは一人の男の自己愛の物語だから。

ヴァンパイア映画での吸血行為がセックスのメタファーであることはよく知られるが、ここでのカルロスの人殺しと人肉食が性交の代償行為であることは明白。

いってみればカルロスは一種の性的不能者(もっとも終盤でニーナとベッドをともにしたような描写があるが)で、美しい女を殺して食べることで性欲を満たしている。

もちろん犠牲者の女性はそれを望んでいたわけではなくムリヤリ殺されたわけだから、これは「ラヴ・ストーリー」どころか生きた女性を自分のオナニーのために惨殺する異常者の身勝手な凶悪犯罪を描いた映画だ。

現代版「」と呼んでもいいかもしれない。

しかし、映画自体はまるでこれを一人の孤独な男の美しい悲恋のように描いている。

そここそ気持ち悪い点だろう。

カルロスの行為は徹頭徹尾「一方通行」なのだが、ニーナに対して親切にして(ただ単にアレクサンドラのことを詮索されたくなかっただけかもしれないが)感謝されるところなど、彼のことが「いい人」っぽく描かれているのもモヤモヤする。

警察が完全に役立たずでカルロスの犯行がバレて捕まるかもしれないというサスペンスがまったく生まれないのも、この作品にはそのようなハラハラさせるような要素で観客の興味を引く気が最初からないからだ。

カルロスの殺人と人肉食の場面の間に、しばしば聖体祭の準備の模様が挟まれる。

聖体祭の山車、神父からカルロスが修復を頼まれる絨毯。

カルロスがしばしば会って時に一緒に食事もする年配の女性(マリア・アルフォンサ・ロッソ)が誰なのか、映画を観ているだけではよくわからない。

会話の端々から付き合いの長い同業者らしいことはうかがえるのだが。カルロスの父親についての台詞もあるし。

最初、母親かとも思ったけど、「君が僕の母親じゃなくてよかった」というカルロスの台詞からそうでないことがわかる。

彼女は特別な存在らしいが、一度映画を観ただけではここで何が描かれているのかよく理解できなかった。

あの絨毯は何を意味していたのだろうか。

わかる人がいたらぜひ解説していただきたいのですが。

神父によって聖書の一節から、が自分の肉をパンに、血をブドウ酒に例えて弟子たちに自分を記念して食すように言うエピソードが語られる。

映画では、これと女性の肉を食いワインを飲むカルロスが重ねられている。

カルロスをキリストに重ねているのだ。

聖書ではしばしば人間の代わりに子羊が屠られるが、ここで屠られるのは女性である。

そして殺されて食われる女性の肉というのは、キリストと重ねられたカルロス自身の肉体の代わりでもある。

つまり、カルロスは自分の代わりに女性を殺して、それを食っている。

まさに自慰行為以外のなにものでもない。

キリストは生涯独身だったが、カルロスもまた独身でニーナには「私は誰も愛さない」と言っている。

一見すると、この「誰も愛さない」はずだった男がついに一人の女性を愛するまでを描いているように思えるが、本当にそうだろうか。

カルロスの部屋で、壁に貼ってあったアレクサンドラのマッサージのチラシを見てカルロスと妹の関係に感づいたニーナは、「人を愛さないなんて嘘だと思う。あなたは過去に恋愛で傷を負ったんでしょう」と問う。カルロスは答えない。

そしてニーナを山小屋に誘いだし、睡眠薬で彼女を眠らせて裸にして殺そうとするが思いとどまり、そのまま全裸の彼女をベッドに寝かせる。

翌朝、自分が裸であることに気づき昨晩のことに思いを巡らすニーナは、何も問いたださない。

彼女はカルロスに好意を抱いている。

だが、カルロスはみずからニーナにアレクサンドラを殺害してその肉を食べたことを告白する。

最初は信じなかったニーナだが、カルロスが嘘を言っていないと感じて、運転している彼のハンドルを無理矢理切る。

車は横転、カルロスは命拾いするが、車外に跳ね飛ばされたニーナは絶命する。

最後まで殺されることもなく警察に捕まることもなかったカルロスは、また独りきりになって聖体祭を店の窓から静かに眺めている…。

さて、カルロスはニーナを雪山に誘う前にまったく無関係な女性を殺す。

海辺で全裸で恋人と戯れているところを、車を盗んでカレシをハネて、おびえる女性を夜の海の中に置き去りにする。

不謹慎だが、カレシがフルチンでハネられるそっけないワンショットにちょっと笑ってしまった。

この映画では、カルロスが全裸でベッドに入るショットで彼のポコティンが映る。

全裸でベッドに寝るのは人の勝手だが、いちいちご丁寧にポコティンを映す意味があるのかどうかよくわからなくて苦笑(あの場面の意図自体がよくわからなかった)。

先ほどのポコティンぶら下げて車にハネられる男といい、無駄チンが2つも出てくるのが奇妙でした。

しばらくして、海で溺れた女性の遺体が発見される。

アレクサンドラかもしれない、ということでニーナが呼ばれカルロスも付き添って遺体と対面するが、犠牲者の女性はアレクサンドラとは「金髪」という共通点しかなく遺体にも損傷はないので、顔を確認すれば別人であることはすぐにわかる。当然ニーナは「妹ではない」と告げる。

このくだりが意味不明だ。

カルロスは女性をアレクサンドラに偽装することで、ニーナに妹が海で溺れ死んだと思わせる気だったのだろうか。

しかし今述べたように、そんな小細工ではニーナが騙されるはずもない。

それに、もし遺体が行方不明のままだったら(その可能性の方が高いだろう)この殺人はまったくなんの意味もなさない。

もはや「人肉食」すら関係ない、単なる行き当たりばったりの殺人。

何か考えているようで、実は何も深いことは考えていないカルロスの言い様のない薄気味悪さ。

僕は、これならばカルロスがこんな(物語上)無意味な殺人を犯すよりも、ニーナがアレクサンドラの持ち物か何かをみつけることでカルロスによる妹の殺害を確信する、といった展開の方がよかったんではないかと思う。

それでも彼女はカルロスを愛するのか、それとも一転して復讐に燃えるのか、ということでストーリーも盛り上がっただろうし。

でも映画では、カルロスがみずから告白する。何かの理由で犯罪が露呈するのではなく、自分からバラすのだ。

ここがもっとも不可解な部分。

黙っていれば、彼はニーナとともに何事もなかったかのよう
に愛しあえたかもしれないのに。

カルロスはニーナに対して、彼女の妹アレクサンドラを殺して食べたことに罪悪感を抱いたのだろうか。

そうではないと思う。

唐突ですが、僕はこの終盤のカルロスの行動に『』の車寅次郎ことを思い浮かべてしまったのでした。

寅さんはいつも美女に片想いしてはフラれるんだけど、時々両想いになることがある。

彼さえそのつもりなら相手の女性と身を固めることだってできるのに、なぜか寅さんはそういう時に限って身を引く。

寅さんが家庭を持っちゃったらシリーズが終わってしまうから、という事情があるにせよ、単発の作品としては不可解きわまりない。しかもこれを毎回繰り返すのだから。

ゆえに寅さんは「童貞説」があったり、「性的不能説」があったりする。

まぁそれは冗談だとしても、このようにせっかく成就しかかった恋愛をわざわざ自分からぶち壊しにかかる人間の心理というのは現実に存在する。

作家のは著書「」の中で、“ハムレット・コンプレックス”または“挫折コンプレックス”というものについて解説している。

「攻撃性を自己自身に反転させて、恋愛においても社会生活においても、すべて挫折するようにみずから進んで行動する。これが神経症者の自己懲罰のメカニズムである。」と。

カルロスがニーナの分析どおり「過去に恋愛で手痛い傷を負った」のかどうかはわからないが、ともかくカルロスはみずから恋愛の成就を忌避してきた。

でもその代わりに欲望の赴くままに魅力を感じた女性を殺し、その肉を食してきたのだった。

迷惑千万な男(;^_^A

カルロスの一連の犯罪は、現実に存在するストーカーなどの凶悪犯罪者たちが被害者に対して自分勝手に作り上げる理屈(妄想)と同一のものだ。

彼らにとっては、犠牲者や被害者たちは彼らに奉仕しその妄想を実現させるための道具でしかない。

アレクサンドラもニーナも、生かすか殺すかはカルロスの気持ち一つで決まってしまう。

「美しい悲恋」どころではない。

この映画が空恐ろしいのは、ニーナとの一件はけっして「美しい悲恋」などではなく異常者の凶悪犯罪である、ということを観客がしっかりと認識しないと、ヘタすればこれを「ラヴ・ストーリー」などと勘違いしかねないことだ。

カルロスが自分の犯罪を犠牲者の実の姉であるニーナに告げたのは、罪の意識からなどではなく、そうやって恋愛の成就をみずから反故にすることが彼が抱える病理だからである。

アレクサンドラの殺害と彼女を食ったことを告白したあと、普通にニーナと自動車に乗って帰ろうとしたところなども、カルロスが罪の意識など持っていない証拠。

ニーナの次の行動が予測できなかった彼には、他人の気持ちを考えることができないのだ。

カルロスとは対照的に人懐っこくて一見面倒見のいい寅さんもまた、恋愛の成就を恐れるオナニストという点では同類といえる。

思わぬところで寅さんにとんでもないとばっちりがいっちゃいましたが^_^;

もっともこの映画は、もしかしたらこれはすべて「孤独な仕立て屋カルロスの白昼夢」だったのではないか?と思わせるようにもなっている。

この映画がほぼ全篇に渡ってニーナに対するカルロスからの視点で描かれていることからも、すべてがカルロスの脳内で起こった出来事、と捉えることもできる。

カルロスはけっして警察に捕まらず、その犯行は近所の人々や知人たちにバレないどころか疑われさえしない。

彼の手もとには何も残っていない。

彼がニーナの肉を食べている描写もない。

本当は何も起こっていないのかもしれない。

いずれにせよ、これは一人の男の虚しい“一人遊び”を描いた映画なのでした。


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