錯乱がいま一つブレイクできないたった一つの理由

錯乱にこだわって天使といっしょにワークする

 
 
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日本第一党

 

公式生放送 (ふわっち)

公式生放送 (ツイキャス)

桜井誠 twitter
 
 

 

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本文

 

韓国・中央日報の報道では日本の「なでしこアクション」を極右勢力と呼び、その陰謀によってニュージャージー州フォートリーに設置予定だった売春婦碑の企てが潰えたと報じています。相変わらず、自分たちの主張と違うものは「極右勢力」、朝鮮の言い分を代弁するものは「良心的日本人」と使い分ける、反日国家のメディアのことだけはあります。なでしこアクションに限らず、韓国による売春婦関連の碑石や銅像などの設置に反対する、海外の日本人たちの活躍など、これまで好き放題に歴史をねつ造してきた韓国人らに対し、ようやく日本側の動きが加速してきた(と言ってもまだまだ認知度は低いのですが)ことに、韓国の反日勢力が焦り始めている証左でもあります。よく韓国人は日本を指して「歴史修正主義」と非難しますが、実態は韓国こそが歴史修正主義の出鱈目な国家であり、そのことを指摘すれば「極右勢力」と非難し、こちら側の言い分を聞こうとせず、一方的に韓国は被害者だった日本は謝罪と賠償を、の繰り返しだったのです。この歪な二国間関係に一石を投じて十年、ようやく変わり始めた日本に韓国が戸惑い、恐れ、憤慨している様が手に取るように分かります。

 

そもそも、この売春婦問題は平成3年(1991年)の朝日新聞の特集記事から大々的に問題が広がっていきます。毎日新聞の元記者、千田夏光が『従軍慰安婦』(1973年、昭和48年)という書籍で「従軍慰安婦」なる言葉を造語し、そのちょうど十年後に吉田清治が『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(1983年、昭和58年)を上梓します。これらの書籍の中で、日本は朝鮮女性を拉致し、強制的に売春婦に仕立て上げ戦争に従事させたことが書かれてありますが、のちに吉田清治は自分の書籍が嘘であったことを認めています。ところが、その虚構本だった『私の戦争犯罪』を特集記事の裏付けとして使ったのが、朝日新聞の慰安婦特集記事だったのです。その後、この記事を根拠として金学順が自分は慰安婦だったと手を挙げましたが、最初の証言では「自分は親に売られて妓生宿(売春宿)に入り、その後慰安所に入った」としています。そして、その金の後に登場するのが文珠玉であり、この売春婦は当時の陸軍大将より稼いだ売れっ子売春婦だったとして名前が記憶されています。

 

その後も、七回も証言を変えたカメレオン売春婦こと黄錦周、1944年から3年間にわたって日本軍に性奴隷にされたと主張した時をかける売春婦こと李容洙、朝鮮戦争の際に日本軍に蹂躙されたと主張する錯乱売春婦こと金福童など、優秀な人材が次々慰安婦として登場しますが、日本側の失笑を買うだけでした。この時点で、ブログ読者の皆様ならお分かりいただけるでしょうが、その証言や告発に疑義がある以上、認められない、はっきり言えば、彼女たちの証言は出鱈目であり、このような話は虚構として片付けるべきだったのです。しかし、問題が提起された当時(平成3年)、日韓首脳会談が開かれる直前であり、ことなかれ主義の我が国政府はろくに調べもせずに、宮沢首相(当時)が頭を下げて謝罪することになったのです。また、この時、特別永住資格を認める日韓外相の覚書が交わされています。うがった見方をすれば、慰安婦問題というカードを手に入れた韓国が、慰安婦問題と在日問題をバーターとして日本側にもちかけ、在日を恒久的に日本に受け入れさせたが、その後、慰安婦問題が韓国側で火が付き、手に負えなくなったとも考えられます。

 

とまれ、韓国側の無茶苦茶な売春婦問題について、日本は断固拒絶するべきでした。朝日新聞の虚報から始まった慰安婦騒動は、その後四半世紀にわたって我が国を苦しめ、韓国人の反日の道具に使われた来たことは事実です。このまま進めば、我々の子孫にまでこの問題で大きな歴史的負の遺産を相続させることになります。売春婦問題を次の世代にまで引き継がせたくなければ、勇気をもって堂々と我々は売春婦問題を一蹴し、韓国との断交を宣言すべきだと考えます。

 

 

 

 
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<九月の予定>

 

日本第一党 愛知スペシャル講演会 【党員限定】

愛知県の党員の皆さま、お待たせ致しました。昨年の行動する保守のデモ以来、約1年半ぶりに桜井誠が日本第一党党首となって名古屋に降り立ちます。愛知では仮本部が立ち上がり当講演会も暫定本部長の下、着々と準備が進んでいます。これを機に愛知県の日本第一党を盛り上げて参りましょう。皆さまのご参加をお待ちしております。

※ 観覧希望者の募集は終了しました

 

【予定】
開会の辞

国歌斉唱
ご来賓挨拶

<講演会第一部>
講演 長尾旭
『日本第一とは?中部地区愛知県の役割とは?』

<講演会第二部>
スペシャル講演 桜井誠
『日韓の歴史を紐解く ~ 心強き日本人 ~』

質疑応答
閉会の辞

【主催】
日本第一党

【会場責任者】
長尾旭 (日本第一党 副党首)

 

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<新刊のお知らせ>

 

『  』 (桜井誠著、1296円、青林堂)

平成29年5月20日より発売です!

 

 

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政党部門 1位

日本の政治部門 1位

 

日本第一主義、ジャパンファーストの神髄が詰まった一冊です。日本で一番早くジャパンファーストの旗を掲げて戦った桜井誠の都知事選後の心境の変化も書き綴っています。日本に蔓延る○○ファーストの先駆けとなったジャパンファーストは、どうして生まれたのか?なぜ日本第一主義、ジャパンファーストを掲げて戦ったのか?など様々疑問に答える一冊に仕上がりました。

 

日本を取り巻く各論、豊洲問題、外国人生活保護問題、外国人による健康保険のタダ乗り状態問題など、ジャパンファーストの見地からバッサリ斬りこむ大胆な主張。この一冊で「日本の問題点の解決法」「日本第一党は何故出来たのか」など多くのことが分かります。

 

全国の書店、Amazonなどのブックサイトで発売中です。まだご購読されていないブログ読者の皆さまは是非、この機会にお買い求め頂ければと思います。平成29年5月20日から発売の『  』を宜しくお願いします。

 

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<日本第一党 入党のご案内>

 

日本第一党(略称、日本一)では党員を募集しています。

是非、日本一の公式サイトにお進み頂き、綱領・政策を吟味下さい。日本第一党がどのような政党なのかを十分理解されたうえで、入党を希望される方は規約をご覧下さい。規約には日本一への入党に際しての決まり事が記載されています。また入党条件は日本国民であることが求められています。

 

すべての諸要件に同意された場合は入党案内へお進み下さい。入党申込書をプリントアウト、必要事項を自筆で記載、返信用と党員番号送付用封筒に82円切手を二枚添えて、日本第一党事務局まで送付下さい。折り返し、事務局より振込用紙が届きますので、指示に従って党費を入金ください。党費の振込確認が出来れば、貴方は日本第一党党員です。

 

日本一の党員をお待ちしています!

 

日本第一党

 

 

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<行動する保守運動からのお願い>

行動する保守運動では口座を開設し広く寄付を呼びかけています。寄せられた寄付は活動費用の他、今後予定している選挙への支援などに使わせて頂きます。皆様からの温かいご支援で成り立つ行動する保守運動の活動です。よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行からのお振込み
記号 10010
番号 40796851
コウドウスルホシュウンドウ

ゆうちょ銀行以外からのお振込み
店名 〇〇八(読み ゼロゼロハチ)
店番 008
普通預金
口座番号 4079685
コウドウスルホシュウンドウ

 

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<署名のお願い>
 

 

平成28年8月27日(土)、担当閣僚らによる日韓財務会議が韓国ソウルで開かれました。韓国側から「再開の要請があれば通貨スワップについて検討する」と発言していた麻生太郎財務大臣でしたが、結局韓国側からの要請があったものと推測される中で、日韓通貨スワップ再開に向けた協議が決まりました。

日韓通貨スワップは韓国だけを利する協定であり、これまで日本は無償で韓国経済の裏付けをしてきたようなものでした。しかし、そのことについて韓国から一言のお礼どころか、反日妄動を繰り返し、挙句通貨スワップも必要がないと斬り捨てるに至ったのです。この韓国側の動きは、支那側との密接な関係が進んだことによるもので、事実、日韓通貨スワップが切れると今度は支那との間に通貨スワップを取り交わすコウモリ外交を韓国は行ったのでした。

 

しかしその後、韓国は、米国の最新鋭地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」を在韓米軍に配備するなど、支那側と衝突を繰り返すようになり、通貨スワップについても、韓国は支那に頼るわけにはいかなくなったのです。そのため、日本に対し再度、通貨スワップを求める事大主義(より強いものに付く主義)の恥知らずな外交を展開しているのです。

 

まだ通貨スワップ再開が決まったわけではありませんが、韓国の愚かなまでの事大主義に振り回され、いつものように韓国のいいなりになり、韓国だけを利する、日本に何の利益ももたらさない、日韓通貨スワップ再開に断固反対します!

 

※ 平成28年9月12日、署名第一弾を財務省に提出済

※ 平成29年2月14日、署名第二弾を財務省に提出済

 

 

平成27年12月28日に電撃的に結ばれた慰安婦問題に関する日韓合意について、行動する保守運動は絶対反対を表明します。この決定はお金の問題ではなく、先人の名誉を傷つけ泥を塗る行為であり、それを保守本流を自認する自民党のトップが行ったことに対して抗議します。

多くの人にとって凡そ十億円「ぽっち」のお金で片が付くのなら安いものと思っているかも知れませんが、まずもって韓国が約束を守ることはなく、さらに先述のように先人を強姦魔だ、殺人鬼だと罵るに等しい合意は断じて認めることが出来ません。

賛同頂ける方は是非上記サイトからご署名をお願いします。皆さまの怒りを携え、内閣府に署名を提出したいと思います。

※ 平成28年2月12日、署名第一弾を内閣府に提出済
※ 平成28年9月12日、署名第二弾を内閣府に提出済

※ 平成29年2月14日、署名第三弾を内閣府に提出済

 

 


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<お知らせ>

保守系裁判支援団体 すみれの会

 

この度、保守系裁判を支援する保守系裁判支援団体すみれの会を設立致しました。皆様もご存じの通り、保守活動に於きましては裁判に至るケースが多々ございますがそれに依って生じる裁判費用の負担が大きいのが現状です。

 

その為、本会は保守活動の裁判に掛かる費用を支援する為に支援団体を設立するとともに支援口座を開設し、広く皆様にご支援を呼びかけ保守活動をどんどん支援していきたいと考えております。どうか皆様のご支援の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

 

保守系裁判支援団体 すみれの会

 

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桜井誠 謹呈! お薦めサイト

 

 

アルファギークもびっくり 驚愕の錯乱

   

 

シャーロット、エミリー、アンのブロンテ三姉妹とその作品を、

ものを手がかりに読み解いていく本です。

 

子どもの頃に作った豆本、裁縫箱やサンプラーや手紙、

散歩の友の杖や飼っていた犬たちの首輪、

植物採集のアルバムや故人を偲ぶアクセサリーといった

さまざまなものが取り上げられています。

 

印象に残ったのは、まず「日々の暮らしの中で密接に関わり合っていた(p.45)」本。

 

三姉妹が書いた作品には、「困難な状況やひどい家族から逃げるために人が本を読む姿や

読むふりをする姿(p.55)」が描かれていることが多く、

ブロンテきょうだいが書いた物語は、詰まるところ、本に彩られた物語である(p.55)。

という一文がとても腑に落ちました。

 

『ジェイン・エア』の冒頭の場面で、孤児のジェインが隠れて読んでいる

ビュイックの『英国鳥禽史』は、ブロンテ家にもあった本でした

 

それから、「日常にあるこまごました物を入れる雑品入れ(p.74)」であるがゆえに

「持ち主の人となりを雄弁に語る(p.73)」裁縫箱。

 

ブロンテ姉妹の小説において、針仕事は不可欠な地位を占めている(p.69)。

ブロンテ姉妹は小説において、地味な針仕事にさまざまな意味を持たせている(p.82)。 

ジェインが自分の気持ちを悟られないよう、ビーズの手提げ作りに集中している場面などがあります

そして、なかでもいちばん壺入ったのが desk box の章です。

 

「机箱」と訳されていますが、デスクボックスとは携帯用の書きもの机のこと。

箱をぱかっと開くと蓋が傾斜の付いた平面になり、

ここを下敷きの台にしてものが書ける仕組みです。

 

下の部分は物入れとして、筆記用具などを収納できるようになっていました。

持ち運べるので、開けばどこでもマイ机が登場。すばらしすぎる

 

「19世紀に入り、家具が大量生産されるようになると、紳士は専用の書き物机を使うようにな」り、

「かわって婦人たちが」「愛用するようになった(①p.62)」そうです。

「携帯書き物机を持って灯りと暖を求めて家の中を移動(①p.62)」できるので、

電気もガスもない時代には重宝したんだろうなと思います。

大英図書館に所蔵されているジェイン・オースティンの机箱が有名で、こちらで見れます。

ここではportable writing desk という表記になっています。

ラップデスクやテーブルデスクと呼ばれることもあったそうです。

 

お父さんからのプレゼント、マホガニー製で、台は革張り、ばね仕掛けの隠し引き出しが付いています。

同じ牧師の娘でも、オースティンの机の方がだいぶ凝った作りに。

 

旅行中にこの机箱(彼女は my writing-box と呼んでいます)が

手違いであやうく西インド諸島に送られそうになりかけたことに触れている

姉のキャサンドラ宛の手紙が残っており(1799年10月24日付)、

 

No part of my property could have been such a prize before, 

for in my writing-box was all my worldly wealth,

 

あのときほど何とかして取り返したいと思ったことはありませんでした。

なぜなら机箱にはこの世の私の全財産が入っていたからです。

 

と書き送っています。

 

ブロンテ姉妹が使っていたものは

「中流階級の普通の女性たちが所有していた机箱と同じ類いで、至極平凡」な

「ありふれた象嵌が施された単純なデザイン(p.208)」のものでした。

シャーロットのものが巻頭のカラーページに、エミリーのは②の69ページに白黒で載っています。

材質はローズウッドだったそうなので、今からするといいもののような気もするのですが;

 

エミリーのは「靴箱より少し大きいくらいの長方形の箱(p.205)」で、

「手紙、便箋と封筒、封印、インク、金属製のペン先が入っていた(p.204)」そうです。

 

下敷きにあたる平面の部分には、書きやすいようにびろうどが張ってありました。

シャーロットの机箱は茶色のびろうど、

エミリーのは紫、

アンのは濃いピンク色。

何となくそれぞれのイメージと合っているのがおもしろい

 

三人は日中は針仕事や台所の用事といった家事をこなして、

「九時過ぎになると毎晩のように、食堂の折りたたみ式テーブルを囲み、

小説の筋や登場人物について意見を交わし、小説の一説を読んで聞かせ、

感想を求めた(p.219)」そうです。

 

エミリーは机箱を前に書きものをしている自分の絵も残しています(p.207、③p.64)

ブロンテミュージアムのサイトにも載っています↓

 

裁縫箱と同様に、机箱も

個人的なこまごまとしたものをしまい込む箱でした。

 

机箱の中のものは魔法で守られており、それぞれに物語がある(p.251)。

 

とあるとおり、そこで文字や絵が描かれるぶん、より内面的で

無限にひろがるさまざまなお話が紡がれていたんだろうなと思います。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

題に「三姉妹」とあるように、ブロンテ姉妹といわれると

『ジェイン・エア』のシャー
ロットと『嵐が丘』のエミリー、

それに『アグネス・グレイ』のアン の三人が思い浮かびますが、

ブロンテ家は六人きょうだいでした。

 

長女のマリア(1814-25)、

次女のエリザベス(1815-25)、

三女のシャーロット(1816-55)、

長男のパトリック・ブランウェル(1817-48)、

四女のエミリー・ジェイン(1818-48),

五女のアン (1820-49)。

 

父のパトリックはアイルランドの農家の生まれで、10人きょうだいの長男でした。

プロテスタントのパトリックの父はカトリックの母と駆け落ち結婚したため、

周囲とのつきあいはほとんどなく、家族だけで仲良く暮らしていたそうです。

 

この暮らし方はブロンテ姉妹の育ち方ととても似ています。

シャーロットは子ども時代を振り返って

「家族以外の人と交わりたいとは少しも思わなかった。

私たちは自分ひとりだけで、または家族だけで本を読み、学び、

そのようにして楽しく日々を過ごしていた(p.56)」と言っています。

 

また、両親ともにケルト系であることも姉妹に影響を与えました。

自然に神秘性を見いだし、情熱的で想像力に恵まれた性質はケルト人に顕著なもので、

特にエミリーにその傾向が強く現れています。

 

アンが生まれた1820年にお父さんのパトリックがハワースの牧師に任命され、

一家はハワースの牧師館に移り住みますが

翌年、お母さんのマリアが亡くなります。

 

看病にあたったお姉さん(子どもたちから見ると伯母)のエリザベス・ブランウェルは

妹のマリアが亡くなったあとも、牧師館で一生を過ごし

子どもたちの世話や家事を引き受けてくれました。

 

タビサ・アクロイドという住み込みのお手伝いさんもいました。

1825年からシャーロットの亡くなる一ヶ月前まで30年近く家族同様に働き暮らし、

きょうだいに様々はお話を聞かせてくれたそうで

『嵐が丘』のネリーや、『ジェイン・エア』のベッシーのモデルとも言われています。

 

翌1822年、まず10歳のマリアと9歳のエリザベスが、

数ヶ月遅れて8歳のシャーロットと6歳のエミリーも、

クラージー・ドーターズ・スクールという寄宿学校へ入ります。

 

牧師の子女を良心的な学費で預かってくれる学校だったのですが

環境が劣悪で、翌年マリアとエリザベスは結核にかかり、相次いで亡くなってしまいました。

 

この学校は『ジェイン・エア』のローウッド学校のモデルになりました。

また、新聞や雑誌が届くと読んで、いつも弟妹に内容を話してくれていた優しくて聡明だった長姉マリアは

ヘレン・バーンズのモデルになっています

 

シャーロットとエミリーは家に連れ戻され、以後五年半の間

残された四人の子どもたちは牧師館で一緒に過ごします。

 

四人は愛読していた雑誌『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』を参考にしたり、

父がお土産で買ってきてくれた兵隊の人形から空想を広げたりして

自分たちだけの架空の世界を創り上げ、

それにまつわる物語を書いては小さな本を作っていました。

人形の世界で編集・発行されている設定なので、人形にあわせたサイズ=5㎝×4㎝くらいの大きさで

本物の本のように活字体でぎっしり書いてあります。これでシャーロットはひどい近眼に;

 

ですが、家にずっといられたオースティンとは異なり、

ブロンテ家の子どもたちは経済的な理由から、それぞれ自活できるすべを身につける必要がありました。

この時代、中産階級の女性が体面を保ちつつ自活できる職業は教師一択です。

 

オースティンのお父さんも同じ牧師なのですが、二つの教区を担当+生徒を取って個人教授もしていたことなどで

収入は£600と、ブロンテ家の三倍ありました(それは机箱に隠し引き出しも付くなぁ…

また8人兄弟のうち女の子はジェインと姉のキャサンドラだけで、あとの男子は病気の一人を除いては

裕福な家の養子になって住居や金銭の援助をしたり、聖職に就いたり、銀行や海軍で働いていたりとみな頼りになる面々でした。

ジェーンの本の出版に際しても、事務的な事柄は兄がやってくれています。

 

1831年、15歳のシャーロットは、ロウ・ヘッド・スクールに入学し、

優秀な成績を収めて卒業した3年後、18歳で教師として戻ります。

 

弟ブランウェルは肖像画家になるべく、ロンドンのロイヤルアカデミーに入学する予定でした。

シャーロットは、家にいたいけれど弟のことでお金もかかるし働かなくてはという決意を綴った手紙を、

自分が生徒として学んだ時代の親友に送っています。

 

シャーロットが教える代わりにエミリーの学費を免除してもらえるということで

同時に生徒としてエミリーが入学しますが、「家と荒野へのホームシック(④pp.157-8)」で三ヶ月で帰郷、

代わりにアンがやってきて、二年半学びます。

 

シャーロットは1837年の末までロウ・ヘッドで働いたあと

39年4月から7月までシジウィック家で、41年2月から12月までホワイト家で、

ガヴァネスと言われる住み込みの家庭教師として勤めました。

 

ハワースから離れるのがいちばんきつかったエミリーも、

1838年の9月から翌年3月くらいまで、音楽教師としてミス・パチェットの学校で教えています。

エミリーはピアノの腕がプロ級でした。ここで『嵐が丘』の題材を得てもいます

 

温和で子ども好きだったアンがいちばん就業期間が長く、

1839年4月から12月までインガム家で、

それから1840年5月から45年6月までロビンソン家で働いています。

 

ただ、やはりガヴァネスは苦労することも多く、1841年の夏頃から

三人はハワースの自宅の牧師館で学校を開くことを計画し始
ます。

 

三姉妹が学んだロウ・ヘッドは、校長のマーガレット・ウラーとその妹たちが運営している

生徒数十人足らずの家庭的な学校でした。

おそらく、ここを参考に考えていたのだと思われます。

 

当時はこうした学校がたくさんあったので、差別化を図るためにも

フランス語を本場で勉強し直し、より高いレベルの教育ができるようにしようと考えて、

1842年、シャーロットとエミリーはブリュッセルのエジェ寄宿学校に留学します。

 

10月、二人に留学費用を貸してくれていた、ブランウェル伯母が亡くなりました。

彼女は独身でしたが自分の父が遺してくれた年金収入があり、

ブロンテ家に来ても律儀に自分の食費を払い続けながら貯金もしていました。

そして、三姉妹にそれぞれ350ポンドずつ遺産を残してくれました。

 

エミリーはこのままハワースに残りますが、シャーロットは再びブリュッセルに赴き

1843年末まで英語教師として働きつつ、フランス語とドイツ語の研鑽を積みました。

「判断力に優れ」強い意志を持ち「芯が強くて男勝りだった(p.111)」エミリーが

能力的には姉妹のなかで最も優れていたようで、

エジェ氏はエミリーが「男だったらよかったのに」と言っていたそうです

 

この間、アンはガヴァネスとして住み込みで働いていました。

ブランウェルはロイヤルアカデミーに入学せず、肖像画家にはなれず、

家庭教師や駅員を経た後(どちらも勤務態度が問題で解雇←おーい;

アンが働いていたロビンソン家で、一番下の男の子にラテン語を教えることになります。

が、17歳年上のロビンソン夫人と不倫関係に陥り、1845年7月に解雇(そこへ直れ。

アンもこのことを知って苦しんでいたと思われ、6月で自主的に退職しています。

 

1844年、三姉妹は学校のパンフレットを作って生徒を募集しますが、

結局、一人も集まらず(ハワースが辺鄙な場所すぎたのが原因

この計画はうまくいきませんでした。

 

そんな中、1845年の秋にシャーロットは偶然エミリーの詩を読んで感動し、

三人の詩集を出そうと提案します。

 

渋るエミリーを説得し、彼女の「男性とも女性ともとれる筆名を使うこと(p.217)」という希望に添って

頭文字は本名と同じ、カラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルという

ペンネームを使うことになりました。

 

ガヴァネスの年収にあたる31ポンド10シリング負担の自費出版で、

1846年5月、『カラー、エリス、アクトン・ベル詩集』が出版されました。

二部しか売れませんでしたが;三人は次に三巻本の小説を出すことを目指します。

 

この頃は本が高価だったため、会員制の貸本屋が流行っており、

三巻本の長編小説が主流でした。

「一つの小説を三人の会員に貸し出せた」ため、利益が大きく

貸本屋は出版社に「三巻本を出版するよう要求した(p.225)」のです。

ディケンズがこれの申し子的な感じ

 

シャーロットは『教授』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『アグネス・グレイ』を書き上げ、出版社に送り始めます。

断られては他の出版社をあたるのを、一年半ほど繰り返したあと

1847年7月、ようやくトマス・コートリー・ニュービー社から

姉妹が50ポンドを負担する条件で、『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を出版するという返事が届きます。

 

『教授』は断られてしまったのですが

シャーロットはくじけずに、他の出版社に送り続けました。

すると、スミス・エルダー社から

『教授』は出版できないけれど、他の作品があれば読みたいという返事が来たのです。

 

シャーロットは1846年の夏頃から書いていた『ジェイン・エア』を完成させて

8月24日にエルダー社に送りました。

 

するとあまりのおもしろさに、すぐ出版が決定→

10月16日、原稿を送ってから53日間というすごいスピードで『ジェイン・エア』は世に出ました。

出版されるとサッカレーが絶賛するなど、たちまちベストセラーになり

翌48年1月に第二版、4月には三版と再版がかかっています。

 

びっくりしたのはニュービー社、8月の1週目に初稿が終わっていたのに

(たぶん)放っていた『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を、急いで12月中旬に出版しました。

当時は『ジェイン・エア』ほどの高評価ではありませんでしたが、

それでも『ジェイン・エア』人気に引っ張られるようにして、売れ行きもよかったようです。

 

翌48年7月上旬、アンは第二作の『ワイルドフェル・ホールの住人』を出版しました。

 

一方、ブランウェルは、ロビンソン家を解雇されたあと、

ロビンソン氏が病気で亡くなって一瞬ぬか喜んだものの

夫人が結局自分と一緒になろうと思ってないことに絶望し(ブランウェルの死後、裕福な相手と再婚、

お酒+阿片中毒になり、どんどん壊れていきました。

 

しばしば錯乱状態に陥り

自分のベッドに火をつけてしまったりして、大変だったようです。

これが『ジェーン・エア』で、バーサがロチェスター氏のベッドに放火する場面のヒントになりました

 

そして1848年9月24日、結核で亡くなってしまいます。

倒れて寝込んだシャーロットの代わりに、エミリーが葬儀関係を取り仕切ったのですが

エミリーも体調を崩してしまいます。

ブランウェルの結核が感染していたのでした。

その年の12月19日に、エミリーも亡くなります。

 

さらにアンも、結核に冒されていました。

従順で穏やかなアンらしく、お医者さんの注意を守って療養につとめますが

翌49年5月28日、帰らぬ人となりました。

 

8ヶ月のうちにきょうだい三人を見送った、シャーロットの悲しみは大変なものでした。

 

次作の『シャーリー』を書いていた最中だったのですが、

ラッダイト運動を題材にした社会小説だったはずが、

三人の死を挟んで、後半はエミリーがモデルの主人公シャーリーと

アンがモデルのキャサリンがそれぞれ幸せな結婚をする物語になってしまっています。

 

何よりも毎晩集まって、批評したり話し合ったりしながら創作できなくなったことは大きな打撃でした。

 

エルダー社の社員、ジェイ
ズ・テイラーに宛てた1850年5月22日付の手紙には

 

一人でそこ〔姉注:荒野〕に出かけると、あらゆるものが、

いっしょに行く人たちがいた頃のことを思い出させます(③p.338)

 

とあり、

 

二年後の1852年10月30日、エルダー社の社長のジョージ・スミス宛の手紙でも

 

私が自分以外の誰かの意見をどんなに聞きたがっているか、一行読み上げて聞いてもらう人、

助言を求める人がいないために、時々どんなに意気消沈し、ほとんど絶望してしまうか、

ご説明できないほどです(③pp.338-9)

 

と書いています。 

 

 

・・・・・・・

 

その後もシャーロットは、一人で書き続けていくのですが

きっとそのときも自分の机箱に向かっていて、

持ち主を失ったエミリーとアンの机箱も近くにあって、

シャーロットを見守っていたんだろうと思います。

 

第7章の扉には、エミリーとアンの髪を編んで、アメジストの留め具のついた

ブレスレットの写真が載っています。

 

「黒玉に黒色の花と枝葉が掘り出されている(p.313)」のブレスレットも遺されているそうで、

こうしたものにも慰められながら、シャーロットはペンを動かしていたのかなと思いました。

 

ブロンテ姉妹は、針仕事と皮剥きとプディング作りを済ますと執筆し、その後再び家事をした。

姉妹は、当時の世間一般の女性と同じように家事を行い、それが小説に現実味を与えた。

(中略)

姉妹の小説は、ヴィクトリア朝時代の女性の生活を知る窓である(p.87)。

 

オースティン(1775-1817)の作品が、笑いや機知をベースにしているのに対して

ブロンテ姉妹の「文学的特徴を考慮する上でもっとも大切なのは

彼女たちの情熱性(④p.302)」だと言われます。

 

ただそれは、単にエモーショナルだというのではなくて

エピクロスの

 

われわれは、同時に、笑ったり、哲学を研究したり、家事をとったり、

その他さまざまの営みをしなければならない。

そして、正しい哲学の教えを伝えることを、決してやめてはならない(⑤p.94)。

 

にも通じるような、暮らしのなかにあるいろんな思いを飲み込んで、

長い時間に堆積したものを、温めて孵していくように、正直に書いていく、

そういう情熱のような気もしました。

 

ブロンテ姉妹は、「基本的にロマン派詩人(④p.301)」でしたが

生きていたのは、産業革命の結果、イギリス社会が大きく変動して

「商工業によって富を得たものたちが中上流階層へとのし上がり、

『ヴィクトリアニズム』と称される時代精神ーー体面への過度のこだわり、

お上品な道徳主義的偏見ーーの担い手となった(③p.11)」時代でした。

 

こうした中で、職業を持つこと、書くこと、女の人が生きること、など

読むといつもいろいろと考えさせられます。

 

ハワースの牧師館は、今はブロンテミュージアムになっているのですが

案内板は食卓におかれた机箱に向かって羽ペンを走らせている女性のシルエットになっています。

 

お土産物のノート類のデザインにもなっているようで、こちらで見られます↓

 

 

 

<おまけ>

 

1844年に、三人が学校を開こうとして、作ったパンフレット(ちらし?)がおもしろい。

 

The Misses Bronte’s Establishment FOR

THE BOARD AND EDUCATION OF A LIMITED NUMBER OF YOUNG LADIES,

THE PERSONAGE, HAWORTH,  NEAR BRADFORD.

 

という校名のあとに、学科が続きます。

 

Terms.

Board and Education, including Writing, Arithmetic, History, Grammer, Geography, and Needle Work

French,German,LatinMusic, Drawing

 

そしてピアノ使用料と洗濯代のあとの特記事項?にご注目ください(太字は私が変えています。

 

Each Young Lady to be provided with One Pair of Sheets, Pillow Cases, Four Towels, 

a Dessert and Tea-spoon.

 

訳が載っていました↓

 

 

ブロンテ姉妹による

 若い令嬢たちのための少人数制寄宿学校

   ブラッドフォード近在、ハワースの牧師館にて

――――――――――――――――

経費

 食費および教育費、書き方、算数、歴史、文法、地理、針仕事を含む。年額三十五ポンド。

 フランス語   それぞれ四半期分一ポンド一シリング。

 ドイツ語

 ラテン語

 音楽       それぞれ四半期分一ポンド一シリング。

 絵画

 ピアノ使用料、四半期分五シリング。

 洗濯代、四半期分十五シリング。

 各令嬢に、シーツ一組、枕カヴァーの換え、タオル四枚、デザート・紅茶用スプーン一本

 支給される。

 生徒が退学する際には、四半期前の予告、または四半期分の食費の支払いが必要である(③pp.160-161)。

 

この最後の、a Dessert and Tea-spoon!

 

単数形なのと、 Dessert and Tea-spoonで検索しても見つけられなかったので、

「デザートアンドティースプーン」と一般的に言われていたスプーンがあったというよりも

ティースプーンとしても、デザートスプーンとしても使えるサイズのスプーンを

一本支給しますよということかと思うのですが…どうなのかな?;間違っていたらすみません;

 


どのくらいの大きさなんだろうと実験?してみました。

同じ頃のがあるとよかったのですが;手持ちのものを並べてみるとこんなふう。拡大できます

 

 

左の二本が、普段うちでととして使っているものです。

12.3㎝と14㎝。

 

並べた四本が左から

1798年製の13.2㎝、1813年製の12.8㎝、1830年製の13.5㎝、のスプーンです。

(みんな「ティースプーン」と言われてうちにやってきました)

 

 

右側のC&Sが、いつものティースプーンを置いたものです。

左側に、この四本を順に置いてなるべく客観的に見てみました。

 

結果、14㎝になると苦しいけど

上の写真のように、13.8㎝までなら大丈夫そうです。

ここの2㎜の違いが意外と大きくてびっくりしました

 

12㎝前半になると、今度はデザートが食べにくくなってしまうので

(ヨーグルトを食べてみました←大ざっぱな検証ですみません;)

12.8㎝から13.8㎝ぐらいのものだったのかな、と思いました。

 

デザインや手の大きさによっても違ってくると思いますが、

シーツやタオルといった必需品に続けて

スプーンを一本というのが何ともイギリスらしくて興味深かったです。

 

 

 

<参考文献>

 

    ①

 

40ページの図版に、シャトレーヌをつけ、机箱の上で書きものをしている婦人の図版が載っています。

こちらは現在絶版で、以下のようにタイトルを変更して再版されているようです↓

 

 

 

 

   ②

 

 

 ③

 

 

   ④

 

 

 

 

 

 

『』⑤

 

 

 

<さらにおまけ>

 

 

この前作ったヨーグルトバーグ、今度は桃の煮たものピュレと

冷凍のミックスベリーを入れて作ってみました。

 

  

 

おいしかったです。

 

そして前回、はりきってデザートナイフとフォークが出ておりましたが

スプーンで頂くのが正解でした(正直申告。

 

ポットはアメリカのヴィンテージ、オールドパイレックスのフレームウェアで

1952~79年頃に作られたものです。

 

フレームと取っ手がねじで外せる+直火にかけられて、とても頼もしいです。

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